はまぐち工務店の骨董品コラム

『囲炉裏』

囲炉裏

囲炉裏(いろり:居炉裏とも表記)とは、屋内に恒久的に設けられる炉の一種です。

伝統的な日本の家屋において床を四角く切って開け、灰を敷き詰め、薪や炭火などを熾すために設けられた一角のことです。主に暖房や調理目的に用い、数える単位には「基」を用います。

囲炉裏は大きく分けて床に組み込んで設置される場合と、土間に設置される場合があります。

日本の伝統的な民家は床敷きの部位と土間の部位が大黒柱を軸に結合した形態を取り、囲炉裏が切られるのは多くの場合床敷きの部位の中央部。
しかし、地域によっては床敷き部分の土間よりの辺に接して切る場合も見受けられます。

元来、囲炉裏は生活にかかせないものとして発展したため、各地方で特有の形態を持つようになりました。家によっては複数の囲炉裏が存在し、身分により使う囲炉裏が分けられていた、ということもあります。

囲炉裏が2つある場合、薪(たきぎ)を燃料とした家族の囲炉裏と、木炭を燃料とした客人用の囲炉裏とを使い分けることもあり、また、煙の出ない木炭の囲炉裏では贅沢な自在鉤や茶釜を用いることも多かったようです。

現在では大きな火鉢や木製のテーブルの中央で炭火を熾す座卓を囲炉裏と称することも多いようですが、

本来囲炉裏は移動できない設備であり、移動のできるものは‘火鉢’と称します。形状としては正方形のものと長方形のものがあり、また茶室にも囲炉裏に良く似た火の座がありますが、茶道では「炉」と称し、畳の間に切ることになっています。

2015.10.26

『薪(まき、たきぎ)』

こけら落とし

薪とは、燃料として用意された木(枝を含む)や木材、木材の廃材などの事を言います。

基本的には薪は伐採した木材を手ごろな大きさに手斧やチェーンソーなどで切断し、さらに小さくまとめた物です。

伐採直後の生木(なまき)は水分を多く含んでいるため、燃焼の妨げとなるので伐採後に割り、木材を乾燥させる必要があります。

以前は庶民が調達し易い燃料であるため、最古より人類に利用されてきた燃料のひとつでしたが、伝統的なバイオマスエネルギーとして世界各地で利用されたため、国連食糧農業機関の推計した林業統計では、開発途上国における木材生産の8割が薪炭生産で占められているようです。

そこで、森林減少の大きな要因は、材木会社などが行う用材生産ではなく、薪採取であるとする見解も生まれてきました。

実際、朝鮮の前近代末では人里近くの山は禿山だらけでした。またイギリスでは製鉄に木炭を使用していた時代に森林資源が大きく失われた過去もありました。

しかし、樹木を伐採するのではなく、小枝を刈る形の利用であれば、切られた枝は再び生えてくるから、森林は再生可能な範囲で利用されます。そして、薪は木質バイオマスの有効活用であり、煮炊き、調理、給湯などに使われる再生可能エネルギーとなるのです。そして、薪を採取する里山、柴山、入会地は、ローカル・コモンズであり、住民の管理の下に持続可能な利用が図られるようになりました。

このように、森林が再生可能な範囲で利用する現地住民は、草の根民活として、持続可能な開発に参加していると言えないでしょうか!?

2015.8.3

『こけら落とし』

こけら落とし

新たに建てられた劇場や映画館等で初めて行われる催しのこと。

そもそも本来‘こけら’とは、屋根を葺くのに用いる杉・椹(さわら)・檜(ひのき)などの薄い削り板のことで、木瓦(こがわら)、木羽(こば)、木羽板とも言います。

ルーツは弥生時代に遡り、名実ともにこけら葺という呼称が登場したのは、1197年に編纂された「多武峰(とうのみね)略記」とされています。

こけら葺を含む板葺屋根の歴史は茅屋根に次いで古く、スギ・サワラ・ヒバ・トチ・ヒノキなど、木の目がよく通って耐水性に優れたこれらの木を使用しました。

断面が扇形になるように割ってそれらをさらに小割りしたものを屋根材として用いたこれらを総称して榑板(くれいた)と呼びます。 葺き終えた屋根を最後に箒で掃き下ろした様(こけらをおろす)を見て、完成後初めての興行を(こけら落とし)と言うようになりました。

2015.6.24

『カヤ』

カヤ

「カヤ」とはススキ、オギ、チガヤなど、主として屋根をふく材料に用いられるイネ科の植物の総称です。したがってカヤという名の植物はありません。

カヤの茎葉は牛馬の飼料や炭俵の材料のほか、特に屋根ふき材として用いられてきました。カヤを刈り取った翌年良質のカヤを得るためには、晩秋にカヤ野を焼き尽くさねばならず、カヤは一種の作物と見なされ管理されていました。

茅葺は世界各地でもっとも原初的な屋根とされ、日本でも縄文時代には茅を用いた屋根だけの住居が作られていたと考えられています。

材料になる植物は水分が多い状態で屋根に使うとすぐに腐ってしまうので、通常冬になって枯れてから集めます。春になるまで充分乾燥させてから使用しますが、耐久性を高めるために使用前に燻したりすることもあり、建物の内部で竈や囲炉裏を使用すると煙で燻されることにより耐久性が高められますが、神社建築の場合は建物内部で火を使うことがまずないため、民家に比べると寿命が短くなります。

また日本では集落が発展し、建物が密集する都市が形成されるにつれて火災に弱い短所が嫌われ、もともと茅葺であった建物の大部分はトタンなどの金属葺屋根に改修されていますが、わずかに茅葺が維持されている建物も残っています。

民家では新規に建築されることはほとんどなくなりましたが、伊勢神宮正宮・別宮などの寺社建築では古式に則り茅葺を維持している例が多いようです。

なお、宮城県石巻市では2006年11月1日より、建築基準法第22条1項の規制区域を緩和することによって、「茅葺き屋根」新築の道を開いてくれました。「茅葺き屋根」の新築を可能にすることによって、田舎暮らしを目指す人々を石巻市内に呼び込む道を開いたものとして注目されています。

ちなみに、当初石巻市は「茅葺き屋根」新築のための「特区」を国に申請していましたが、国は市独自の判断で、火災の延焼防止を目的に住宅に不燃材使用を定めている建築基準法の22条の指定を見直すことで、「茅葺き屋根」新築のための規制緩和に対応できるとの見解を示した珍しい法案を通してくれました。

2015.4.28


『やぐら』

やぐら

古くは「矢倉」「矢蔵」「矢庫」と書き、矢を収める倉のことで、『日本書紀古訓』では「兵庫」を『やぐら』と読んだ例も見られます。転じて城壁などの上に設けて外敵を偵察したり、矢を射たりするために設けた構築物も『やぐら』と呼ばれるようになりました。

室町時代以降では、軍船の上部構築物に『やぐら』が造られ、高く組み上げて造った構築物を指すようになりました。

以降、遠方まで見渡せるように高く組まれたものを「火の見櫓」と言い、祭礼や盆踊りで太鼓などを演奏するために高く造られたものを「櫓」と呼び、またテーブル上に造られたコタツは「櫓炬燵」と呼び、幅広い意味で使われるようになりました。

2015.3.9


『指物』

指物

日本でいう「指物」の名の由来については諸説ありますが、ホゾや継ぎ手によって材を組むことを「指す」といい、また「物指し」を用いて細工するからともいわれています。

指物の技術者を日本では指物師と呼びます。日本において伝統的な指物にはいくつかの流派とも呼べるものが存在しますが、特に京都の京指物、東京(旧・江戸)の江戸指物、大阪の大阪唐木指物が有名です。

平安時代の貴族文化に起源を持つ京指物は、室町時代以降これを専門とする職人(指物師)が現れ、その後の茶道文化の確立とともに発展しました。朝廷や公家が主に用いていたことから優雅かつ精緻な細工が特徴です。

無垢板を用いた箪笥・飾り棚・机などといった高級和家具のほか、桐・杉・欅・桑などといった木の素材を生かした箱物・板物・挽物(ひきもの)・曲物(まげもの)など茶道具を作成します。

1976年(昭和51年)6月2日、京指物は木工品として経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けましたが、現在主要製造地域は京都市のみとなってしまいました。

2015.2.2


『襖』

襖

障子という言葉は中国伝来のようですが、「ふすま」は唐にも韓にも無く、日本人の命名であるようです。

「ふすま障子」が考案された初めは、御所の寝殿の中の寝所の間仕切りとして使用されていました。寝所は「衾所(ふすまどころ)」といわれ、「衾」は元来「ふとん、寝具」の意。このため、「衾所の衾障子」と言われました。さらには、ふすま障子の周囲を軟錦(ぜんきん)と称した幅広い縁を貼った形が、衾の形に相似していたところから衾障子と言われた、などの説があるようです。「衾(きん)」をふすまと訓ませるのは、「臥す間(ふすま)」から来ていると想像されます。

いずれにしても「ふすま」の語源は「衾」であるという学説が今では正しいとされています。

一応、正式の客間には、白地または襖絵が描かれたものを用いて襖障子と称し、略式の居間や数寄屋風の建物には、色無地や小紋柄を木版で刷った唐紙を使用し、唐紙障子と称したようです。唐紙障子の考案からやや遅れて、「明障子(あかりしょうじ)」が考案されました。

これが今日の障子と変化していきました。

2014.12.16


『座敷』

座敷

元来日本では「板敷床」であったため、畳、しとね、円座等の敷物を敷いて座る場所を設けるようになりました。

鎌倉時代中期には鎌倉における上層武家住宅で、客を迎え入れて酒宴などを開く部屋を指すように変化、その後、座敷を中心とする住宅が普及し、そのような住宅の建築様式は書院造と呼ぶようになりました。

つまり、座敷は書院造の基本空間であり、近代になると洋室との比較から和室と呼ばれるようになりました。

近現代の一般住宅では、一番よい和室に対して当てられる語となり、日当たりや風通しが良く、床の間が設けられるようになりました。また、冠婚葬祭などの儀礼や改まった年中行事の場として用いられるほか、客を接待したり、宿泊させることも多いようです。

客間として使う「座敷」と、もっぱら家族が起居するための奥まった「座敷」とを区別するために、前者を「表座敷(おもてざしき)」、後者を「奥座敷(おくざしき)」と呼びます。また、換喩表現としては、「表玄関」という語があるために「表座敷」とはあまり用いられませんが、「奥座敷」は繁華地に近接するリゾート地を指す語としてよく用いられています。

2014.11.10


『玄関』

玄関

玄関とは建物、居住の主要となる出入口のこと。

元は中国『老子』の「玄の又玄なる衆の妙たる門」による語で、日本では鎌倉時代に禅宗で用いられた仏教語だそうです。

「玄」は奥が深い悟りの境地を意味に、「関」は入り口の事で玄関は「玄妙な道に入る関門」、つまり奥深い仏道への入り口を意味しました。

そこから玄関は禅寺の方丈への入り口を意味し、寺の門なども指すようになりました。

江戸時代には式台を構えている出入口を「玄関」と称し、明治時代以降は形式を問わず住居・公共建築の出入口を指すようになったようです。

2014.10.07


『床の間』

床の間

床の間(とこのま)とは、日本の住宅の畳の部屋に見られる座敷飾りの一つです。正しくは「床(とこ)」で、「床の間」は俗称とされます。

室町時代以降には、有力者の館や城の広間、有力者の家臣が、仕える主人を迎え入れるため邸宅の客間に座敷飾りが造られ、その一部として採用されました。

主人のいる上段に装飾を施した床の間などの座敷飾りを造り、主人の権威を演出しました。

江戸時代に入ると、庄屋などの一部の庶民の住宅において領主や代官など家主よりも身分の高い客を迎え入れるために床の間などの座敷飾りが造られるようになりました。

さらに明治時代以降になると、都市部の庶民の客間にも床の間が一般化するようになりましたが、現在では掛け軸をかける習慣が衰え、畳の部屋でも床の間を省略することが多くなってしまいました。

2014.09.01


『札付き』

札付き

江戸時代にも戸籍謄本のような「人別帳(にんべつちょう)」というものが存在していました。

ここには江戸市内に住む人が必ず記載せねばならず、記載していない人は、仕事もまともに行う事はできなかったのです。

さらに江戸幕府は江戸内の治安のために「連座制(れんざせい)」という物を考案しました。

これは一人が罪を犯した場合、家族だけでなく隣近所(5人組)が「監督不行届」として罪に問われてしまう物です。

そんなとばっちりを受けては嫌だと、隣近所で助け合って悪人を出さないようにしていました。それでも素行が悪い人間は出てしまうワケで、どう考えてもこの先、大きな犯罪を犯しそうな人物が家族に出てしまった場合「勘当」という手続きをします。つまり人別帳がら抹消して、「私たちはこの人物とはすでに一切関係ありません、犯罪を犯したとしてもまったく関係ありません」というワケなのです。

その人別帳から名前を抹消する時に、最初は名前を墨で線を引いて消していたのですが、文化年間(1804~1816)の頃に、名前の部分に「札」を貼って消すようになっていったのです。それが転じて札つきのワルというのは「素行不良でこの先犯罪に手を染めるのが当然」と周囲が考えているような人物の事を言うようになりました。

2014.07.22


『はばかり』

トイレ

古くは便所の事を《はばかり》と呼んでいたようで、「人目を憚(はばか)る」から来ているようです。

古式トイレは溜壷式ですから、綺麗なものではありませんので「不浄」、そこへ行く行為は堂々と宣言して行くものではなく、人目を憚って行くものですから「憚り=はばかり」と言うようになり、他にも厠、後架、雪隠などいろいろな言葉があります。

1939年には武士階級の女性の言葉としての記載があり、この「はばかり」も、1889年の国語辞典「言海」では、東京夫人のいわゆる「山の手言葉」で「上厠」つまり厠に行くことと記載されています。

男性では江戸時代以来の「便所」の意味で戦後でも高齢者には残っていましたが、女性の場合は便所に行く行為を和らげる言葉に移ったようです。「ごふじょ(御不浄)」「おとう(御東司)」「せんちょ(洗所)」などの女性言葉も、やがて「フール」「トイレ」「クロゼット」「WC」など外来の「ハイカラ語」に移っていったものです。フランス語のトイレットが便所の意味で使われたのは、英語のトイレとして1918年の辞典に出てきます。

水洗トイレの普及とともに、このような水洗ではない便所の様式を連想させる言葉もまた消えていったものです。しかしほかの意味で残ったものもあります。

京ことばです。
京ことばで「はばかりさん」とは、「ご苦労さん」、ほねおりを謝す時の言葉の意味合いで、「おおきにはばかりさん!」などとしてこちらは今でも使っています。

2014.06.23


『まな板』

まな板

まな板の「まな」とは「真魚」(川魚)のことを指すようで、古くはその用途は魚の調理にのみ限定されていたと見られます。

一方で、「まな」には「真菜」という解釈もあります。

現在では「菜」は野菜類を示す言葉として用いられていますが、かつてはおかずを全て「菜」と呼んでいました。この菜のうち「真のおかず」、つまり主となるおかずが「真菜」というわけです。肉や魚がおかずの中心素材になることが多いため、肉と魚を「真菜」と呼ぶと考えてもいいでしょう。

この「真菜」を切りさばくときに使う板という所から「真菜板」と呼ばれるようになったようです。また、まな板によく使われるのは檜(ひのき)で、高級な懐石専門店やすし屋では「尾州(びしゅう)檜」が一番とされています。

特にカウンター越しに、調理台の真ん中に特大のまな板が鎮座しているのをご覧になったことはないでしょうか?

例えば、鰻(うなぎ)屋さんの場合は「朴(ほう)」の木を使います。

先人の話では、板の色がやや緑がかっており、鰻をさばくと血の赤がよくわかります。また、関西は鰻に目打ちをするため、まな板に食い込んだ金具を取っても弾力性があり、自然に穴が縮むから良いそうです。

和菓子屋さんには干菓子を打ちつけられるように堅い桜のまな板を、お餅(もち)屋さんには、柳や栃(とち)など、お店によって、また調理人さんの好みによってまな板の素材もまた違ってきます。

2014.05.26


『床鳴り(鴬張り)』

床鳴り(鴬張り)

おそらく想像ですが、もともとは施工不備からくる「床鳴り」を活用した日本古来の建築文化。古い建築物に見られ、人が床の板の上を歩く事によりきしみ音が鳴る様につくられた仕組みを「鶯張り」と言い、外部侵入者の危険探知の為に設けられたとされています。

また床の音のみに限らず、塀や建築物の構造による音響も考え作られていたとされています。他に庭に敷き詰められる砂利・玉砂利等も、簡易ながら同等の効果を得られる建造物として挙げられます。

鶯張りの成立の経緯は人為的、自然作為と諸説はありますが、ただその技術は失われ今日では同等の床の製作は難しいと言われています。

2014.04.28


『畳(たたみ)』

畳(たたみ)

元来は、むしろ、ござ、こも等の敷物の総称として用いられており、薄い敷物を何枚も積み重ねたことから、また、使用しないときは畳んでおくことから(たたむ)が名詞化され(たたみ)となったようです。

畳は、世界に類がない日本固有の文化で、畳の原点は大昔から存在します。その当時は藁を重ねただけでした。

現代の畳に近づくのは平安時代に入ってからであり、厚みが加わるとともに大きさの規格化が進められました。延喜式では、階級により大きさや縁の色が定められています。平安時代までは板床に敷くクッションの一種の様な感覚で使われていましたが、室町時代に入ると、書院造の登場によって部屋全体に畳が敷かれる様式があらわれ、茶道の拡大に伴い、正座と共に普及していきました。

江戸時代に入ると、畳そのものが重要な建築物の要素として見なされるようになり、城や屋敷の改修工事を司る役職として畳奉行が任命される例も見られるようになりました。

近年では生活の洋風化に伴い畳は敷き詰めるのではなく、平安時代のようにクッションとしてまた、アクセントとして1枚から数枚程度板間に置く、という形が復活しつつあるように思われます。

2014.02.24


『虫籠窓(むしこまど)』

虫籠窓(むしこまど)

虫籠窓 とは、京町家 の厨子二階(つしにかい)や古民家の小屋裏など、採光と風通しのための窓で土や漆喰で等間隔にぬられた格子状の窓のことです。虫かご(籠)のように、等間隔で格子がならぶ窓の要旨からそのように呼ばれています。

またこのような設えがある建物として京町屋が有名ですが、江戸時代の中ごろには現在残る形にほぼ近いものとなったとされ、外観は紅殻格子(べんがらこうし)と呼ばれる色の濃い格子、虫籠(むしこ)窓、犬矢来などが特徴的です。2階建てが多いですが、平屋や3階建てもあります。

町家の立地する敷地は、間口が狭く奥行きが深いため「うなぎの寝床」と呼ばれ、これは三間(約5.4m)の間口を一軒役として課税する豊臣秀吉の税制に反発した形状であるという説があります。一方、街路に都市住宅、とくに併用住宅が建ち並ぶ際には古今東西でこのような細長い敷地の町並みが成立しており、京都に限らず各地においてもその形状が課税のせいだとする俗説もあるようです。

ちなみに、京都市の定義で「1950年以前に伝統的木造軸組構法で建てられた木造家屋」とされる京町家は、1864年の禁門の変ののちに発生した大火(どんどん焼け)以降に建てられたものがほとんどのようです。1998年に行われた市の調査によると、市中心部(上京、中京、下京、東山区)で約28000軒が確認され、市内全域で推計5万軒残っているとされていました。

その後2010年8月、京都市が市内全域を対象に京町家の実態調査を行った結果、47735軒残存しているが、うち10.5%が空き家である事が判明。江戸時代の京町家は全体の2%で、明治時代のものも14%ありました。また、中京区などの都心部では、1996年に行った調査に比べ約2割減少していることも判明。老朽化や住人の高齢化が主な理由とみて、市は調査結果をデータベース化して保存・再生の仕組みや政策づくりに反映させるという。

とのことらしいのですが、いずれにしてもこのような伝統文化が無くなっていくことが建築屋の端くれとしては残念でなりません…

2014.01.27


『箱膳』

箱膳

食器収納を兼ねた、ふたの付いた箱形の膳のこと。中に食器を入れておき、食事の際にはふたを返して膳として使用した、「切り溜め(きりだめ)」「飯台」ともいいます。

木製で24~30cm四方、高さ12cm前後、板の表面は柿渋や漆などで仕上げられています。中には、飯椀・汁椀・小皿・箸・湯呑み茶碗・布巾などの個々の食器一式が収納されていて、共用することはありません。また、商家の使用人などが用いたのが始まりとされています。使う時は上蓋を裏返して、中から取り出した碗や皿を並べ、蓋を身の上に置くと小さな食台代わりになるというわけです。おひつからごはんを、鍋から汁をよそい、あとはわずかなおかずや漬け物だけです。

「いただきます」ということばからわかるように、植物や動物の命をいただいた食物を神聖化し、盛る食器が個人に属するという日本的な考えが反映されて、銘々膳や箱膳の文化が生まれたようです。食事中の作法は厳しく、姿勢を正し静かに食べていました。また子どもは小学校にあがる時に、お膳を渡され家族の一員としての自覚を促され、食事どきは秩序を示したり、躾をしたり、家族の枠の中に位置づけられることが人として生きる方法であるということを学ぶ場だったのです。

箱膳には、現代人では想像のつかない特徴がもうひとつあります。

食後、食器を洗うのは現代では当たり前のようですが、箱膳の場合、食べ終わったら香の物(漬け物)で碗をきれいにしてそれも食べ、白湯ですすいで呑みほします。それから布巾で拭いて箱の中へしまい、蓋をかぶせて台所の棚に積み上げるのです。食器を洗うのは月に2~3回、多い家は週に1~2回。家電品や水道がない時代、全ての家事は手仕事でした。井戸のない家も多く、共同井戸や川から水を汲まなければならないし、大家族の食器は洗うのに時間がかかり、収納も場所を取ります。これらを解決する合理的な道具「箱膳」の誕生で、家事の手間が省け、水が節約でき、収納場所もわずかになったというわけです。

その後、明治の終わり頃から普及し始めたちゃぶ台を使うようになってから、食器は食事のたびに洗うようになったようです。食器を共用し、油を使うおかずが増えて洗わずにはすまなくなったことも要因の一つでしょう。さらに、大正デモクラシーの影響を受けて一家団欒の理想が説かれ、「食事は一家そろっておいしく食べる」ということが日本で初めて認識されました。

第二次世界大戦後、家父長的家族制度が解体し、個人の尊重・男女平等が確立されはじめ、アメリカ文化とあいまって、両親と子どもだけの「核家族」化が進みました。厳しい序列が連綿と続いた伝統文化を、良くも悪くも一変させその代償として獲得した一家団欒の構図はこの日本で、今も続いているといえるのでしょうか。

2013.12.25


『漆』

漆

最も一般的な用途は塗料として用いられ、漆を塗られた道具を漆器と言い、黒く輝く漆塗りは伝統工芸としてその美しさと強靱さを評価され、食器や高級家具、楽器などに用いられています。

漆は熱や湿気、酸、アルカリにも強く腐敗防止、防虫の効果もあるため、食器や家具に適しています。一方、紫外線を受けると劣化しまた、極度の乾燥状態に長期間曝すと、ひび割れたり、剥れたり、崩れたりします。

また江戸時代などには、漆を接着剤として用いることもよく行われました。例えば、小麦粉と漆を練り合わせて、割れた磁器を接着する例があります。

硬化には2週間程度を要し、接着後、接着部分の上に黒漆を塗って乾かし、さらに赤漆を塗り、金粉をまぶす手法は金継ぎ(きんつぎ)といい、鑑賞に堪える、ないしは工芸的価値を高めるものとして扱われています。

漆製品歴史は縄文早期から出土し、縄文時代を通じて出土事例が見られます。2000年に北海道函館市で実施された垣ノ島B遺跡の調査で、出土した漆塗りの副葬品が約9000年前に作られたものであったことが明らかになりました。これが現存する最古の漆塗り製品です。

また『以呂波字類抄』に、日本における漆塗の起源として次のような話が載っています。倭武皇子(やまとたけるのみこ)は、宇陀の阿貴山で猟をしていたとき大猪を射たが、仕留めることができなかった。漆の木を折ってその汁を矢先に塗って再び射ると、とどめを刺すことができた。そのとき汁で皇子の手が黒く染まった。部下に木の汁を集めさせ、持っていた物に塗ると美しく染まった。そこでこの地を漆河原(現在の奈良県宇陀市大宇陀嬉河原(うれしがわら))と名附け、漆の木が自生している曽爾郷に漆部造(ぬりべのみやつこ)を置いた。とのことです!

2013.11.25


『木の「元」と「末」』

木の「元」と「末」

ご存知の通り、木は上へ上へと年々少しずつ成長していきます。

根に近い部分と、空に近い方の部分では、少し性質が異なり、この性質の違いを上手に使い分けし、根っこに近い部分は造作材に、それより上の部分は構造材にと、製材されています。

だから、「木は山で育った状態で使ってやるのが一番」なのです。

山で木が生えていた状態で使う…

たとえば、「山で北側を向いていた木の面は、北側を向いている柱に使う」などといった具体です。今の住宅づくりの中では、なかなかそこまで出来ないのが現実です。

ただ、今でも住まい造りで守られている鉄則はというと、「元」と」「末」。「元」とは、木の根っこに近い部分をさし、「末」とは空に近い部分をさします。柱として使う場合には、「元」を「下」に、「末」を「上」にして使います。

以前に『逆柱』として紹介(工務店側よもやま話で)いたしましたが、山で生えていた状態と同じスタイルで立たせてやる、これは木を扱う人にとっては常識です。

この「元」と「末」。木肌で見分けるのはちょっと難しんですが、そんなことをちょっと意識してみると、上棟したばかりの住まいに立つ柱は、そのまま木がそこに立っているように見えてきます。

木の家はやっぱり、都会の中の森だと思いませんか!

2013.10.16


『木表・木裏(きおもて・きうら)』

木にも表と裏があることをご存じでしたか。
丸太の状態で外側になる方が木表(きおもて)、芯に近い方が木裏(きうら)と呼ばれます。

柱材のように中心に芯が来るように製材する場合は4面全てが木表になりますが、板材に挽く場合は芯を含まずに周辺から取りますから、その場合は外側に当たる面を「木表」、芯側になる面を「木裏」と云います。断面の木目を見ればすぐ判ります。

実は木の性質は周辺部と芯部で大きく違い、適材適所を充分配慮する必要があります。周辺材は白っぽく「白太」と呼ばれ節が少なくて乾き易く綺麗で引張強度は高いですが耐水性は低い。

一方「赤身」と呼ばれる芯材は赤く耐水性・耐久性は抜群ですが、含水率が高く引張強度は落ちます。外壁の板張りやウッドデッキ、雨戸戸箱などは赤身で作るがベストだし、部位を指定すると高価になるので「源平」と云われるような赤身と白太の混じった材もよく使います。
ちなみに何故「源平」か?というと紅白なので源氏と平家をもじっている訳です。木の豆知識でした。

木表・木裏(きおもて・きうら)んただ、それ以前に、表と裏を間違って使ってはいけないんです。

例えば、右図のように、「敷居」も「鴨居」も、木表が室内(建具側)を向くように止め付ける必要があります。左側の反りの図を見てもらえると分かるかと思いますが、反りを抑えつける方向で止め付ける必要がある訳です。もし逆に使ってしまうと、反りが発生し、木が室内(建具側)へ膨れてきてしまい、建具の開閉ができなくなります。

こんな小さな、いわば「面倒くさいルール」が、木にはたくさんあります。このあたりが、今の家づくりの中で敬遠され、使われなくなってきているのかもしれません。でも、「面倒くさい」以上に利点があるのが、弊社では木材や自然素材の良さだと思っています。

2013.08.23


おくどさん

『おくどさん』

近年ではめったに見られなくなりましたが元来竈(くど)とは、竈(かまど)のうち、その後部に位置する煙の排出部の事を意味するようです。

この意味では特に「竈突」「竈処」と表記されることもありまた、竹取物語には「かみに竈をあけて…」という一節が存在します。

しかし地元京都などでは、竈(かまど)そのものを意味し、「おくどさん」と呼びます。

また、土間など住居の中で、煮炊きを行う空間そのものを意味することもあり、山陰地方などでは、煮炊きの設備を「かまど」、空間そのものを「くど」と呼んで区別している地域もあるようです。

2013.07.22


弁柄 ベンガラ

『弁柄』

「ベンガラ」の語源は、インドのベンガル地方に酸化鉄(天然産)が多く産出し、これがわが国に流入して来たところから俗に‘ベンガラニッチ’略してベンガラといわれたとする地名転化説が有力です。大陸との交易が盛んになるにつれて、インドまたは中国産の酸化鉄が輸入され、これが顔料酸化鉄の主流となって徳川鎖国まで続いたようであります。

しかし日本の暮らしにも古くから根付いている素材で陶器や漆器、また防虫、防腐の機能性から家屋のベンガラ塗りとしても使用されてきました。

はるかにさかのぼる縄文及び弥生土器の類にも酸化鉄を主成分とする赤色系顔料使用の跡が認められ、これらは鉄を多く含有する粘土のようなものを焼いて製出したと考えられます。ラスコーやアルタミラの洞窟壁画にもみられ旧石器時代から使われた最古の顔料であり古代色です。

1707年(宝永4年)、備中吹屋(岡山県)において偶然の機縁から磁硫化鉄鉱より得られる緑礬を原料とした良質のベンガラ製造法が発見され、これが正確な意味での国産ベンガラの誕生であるようです。

その後大正時代に至るまで、世にいわゆる「吹屋弁柄」として隆盛を極めました。江戸時代の一時期には大阪において、当時のダライコを原料とする製造業者が出現し、かなりの数にのぼったといわれます。

経年変化に強く、日光による褪色がないことも特徴で昨今では無害であることから天然素材として見直され繊維製品への染色、オーガニック製品にも使用されるようになりました。

2013.06.25


格子

『格子』

格子(こうし)は周期的に並んだ区切り、仕切りのことで、格子戸、鉄格子などとしても一般的に使われています。格子は、角材を縦横の格子状に組み上げた建具です。

中間に補強用の水平材が入らずに、角材を縦方向に並べたものも格子と言いますが、厳密には連子といいます。

窓先に取りつけたり、引き戸や扉に戸板の替わりにこれを用いた格子戸などもあります。

装飾的な効果もあるため欄間や襖、障子等の内部建具にも付けられられ、いずれの場合も建物の採光側に用い、内部での採光と通風を確保しつつ、外部からの進入と視界を制限できる効果があります。

大名屋敷や陣屋、城郭などではその効果を利用して物見用の出窓に格子を付ける(出格子)ことがあり、城郭の場合には敵の侵入などを防ぐためにほぼ全ての窓を太めの角材で造られた格子とすることが多くありました。

また採光と視線の遮りの効果以外にも、牢や檻などの動物や人等を収める部屋の建具(鉄格子等)として、用いられることもよくあります。

2013.05.24


蒔絵

『蒔絵』

蒔絵(まきえ)は、漆工芸技法の一つで、漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法のこと。

金銀の薄板を定着させる「平文(ひょうもん)または、平脱(へいだつ)」や漆器表面に溝を彫って金銀箔を埋め込む「沈金(ちんきん)」、夜光貝、アワビ貝などを文様の形に切り透かしたものを貼ったり埋め込んだりする「螺鈿(らでん)」などとともに、漆器の代表的加飾技法の一つです。

我が国に現存する最古の蒔絵資料は正倉院宝物の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうからたち)」の鞘に施された「末金鏤作(まっきんるさく)」で、これは2009~2010年に行われた宮内庁正倉院事務所の科学的な調査研究によって、研出蒔絵であることが確認されています。

2013.04.11


暖簾

『暖簾』

家紋などを入れて、お店の前などにかけるイメージが強いのですが、そもそも暖簾っていつ頃から登場したのでしょうか?

それはかなり以前からのようで、暖簾が登場するのは平安時代末期。しかも、商家ではなく民家の玄関に暖簾が描かれているのを文献で見ることができます。当時は日除けや、風除け、埃除け、あるいは人目を除けるために軒先にかけられたようです。

商家が家紋を入れるようになったのは室町時代に入ってからのようで、また、文字などを入れるようになったのは江戸時代の初期頃と推察されます。

寺子屋などによって一般町民にも語学教育が行われるようになったためで、識字能力が高まるにつれて暖簾にも店の屋号とか業種が書き込まれるようになったようです。

ちなみに越後屋さん(現在の三越百貨店)の三井八郎右左衛門も、この時代に屋号を入れた暖簾で知名度を高めて商いを発展させたと言われています。

2013.03.11


文机

『文机』

以前より、日本の文化では「畳」の上で生活しておりました。寝るのも、食べるのも、また軽作業をする場合でも畳が主流。

よって正座という姿勢が成り立ち、その姿勢で使用される備品もしかり。

「文机」はその最たるもので、書道など学習用にも広く使われていました。台だけのシンプルなものや、脇に引き出しの付いた収納を兼ねたもの等々。

しかし今ではマンション等の普及もあり、 畳(和室)そのものの需要が激減しております。このような商品は今では本来の使用目的というよりも、ローボードなどインテリアとして活用されている方が多いようです。

2013.02.13


煙草盆

『タバコ盆』

煙草盆とは、煙管(きせる)、火入(ひいれ)、灰吹(はいふ)といった喫煙具の一式を収めたおのこと。

現代でも煙草は嗜好品の代表であるが、以前はもっと高級な品であったと思われます。

よって、それを取り巻く備品も凝ったものが多く、また、大切に使われてきたようです。

今では本来の使用目的というよりも、インテリアとして活用されている方が多いようです。

2013.01.07


火鉢・手あぶり

『火鉢・手あぶり』

形状により長火鉢、角火鉢、六角火鉢、丸火鉢などの種類があり、材質的は陶器や木製、金属製のものが多く珍しい石製のものもあるようです。
大きさも数人がかりで動かす大名火鉢から、手あぶりと呼称される小形火鉢まで様々です。

薪のように煙が出ないことから上流の武家や公家に使用されていたものが、江戸時代から明治にかけて庶民にも普及し、一部はインテリアとして発達し、彫金を施された唐金(金属)製の火鉢や、鮮やかな彩色をされた陶器製の火鉢が作られるようになりました。

火鉢は、現在でも一部で使用されており、エアコンを苦手とする人たちになお暖房に使用されています。またインテリア目的で植木鉢や、水を張って睡蓮鉢や大型の金魚鉢としても活用されています。

2012.11.21


建具

前回は引手についてお話ししましたが、今回はそれを使用する建具について。

以前は、今日のようなプリント柄や印刷技術はありませんでした。

そのため先人たちは、木柄や木目を生かしたデザインを巧みに活かし、風土に合わしたディティールを生み出しました。

たとえば京都では夏と冬とで建具そのものを取り換え、季節に合わせた素材で室内を演出しました。他の地域ではそのような習慣はありませんでしたが、1つの建具で四季に対応してきました。

たとえば、脱着可能な障子にしてみたり、窓の開閉が出来たり等々。そのような現代でも十分使用可能な商品を、当方では数多く取り揃えております。

2012.10.24


引手金物

今回は引手(金物)について

現代では日本にも欧米文化が広く普及しているため、ほとんどの扉は‘開戸’になってきています。

しかし以前は逆にほとんどが引戸であったため、装飾をつけるには襖の場合、紙の柄と引手しかありませんでした。であるがゆえに形、色、素材といったものを絶妙に組み合わせ、多種多様な引手が生まれました。

今ではあまり使われなくなってしまいましたが、手の込んだ繊細な商品は今でも十分に活用できます。

また‘アンティーク商品’は本来の目的に使用するだけでなく、ちょっとした装飾やディスプレイ等にも、工夫次第で活用方法は無限大です。
貴殿も1つオンリーワンな可能性を探してみませんか!

2012.09.18


碍子

前回は照明器具の事を書きましたが、それと同時に、電気配線には必ず必要なものとして‘碍子’があります。

‘碍子’とは磁器で出来た絶縁体なるもので、電気配線や照明器具の取り付けには絶対必要なものです。

こちらも現在では、器具の内部や身に見えない箇所に使われるようになり、また代替えのプラスチック製品が普及してきました。 しかし当時はそういった必需品にまで装飾を施し、器具だけでなく碍子まで見た目にも楽しめるような商品がありました。

染付や後絵といった技法は『大正ロマン、昭和レトロ』を代表する碍子の装飾方法です。

2012.08.21


レトロな照明器具

明治維新より欧米文化が急速に日本にも普及し始め、庶民の生活にもいろいろと影響を及ぼしてきました。

その代名詞が電気の普及で、大正時代に入ると一気に各戸まで電気配線が張り巡らされ、それに伴い電化製品が出始めました。これがいわゆる『大正ロマン、昭和レトロ』と言われる時代です。

その一つに照明器具があり、今ではLED照明まで出始めましたが、当時は裸電球に笠をかぶせるという原始的な構造でした。

しかしその斬新な装飾が、いま改めて認められるようになり、数少なくなった商品を主に観賞用として求められる方が増えてきました。もちろん当方の所有品は実用可能です。

2012.07.20

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